kotonoha: November 2003 Archives

個人語

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人それぞれ、その人しか使わない言い回しを持っているものだ。

例えば、初対面の人が聞いても理解出来ないような言い回しの口調であっても、長年連れ添った親友や家族であれば、その言葉の意味を理解出来ることがある。ここでは、それを「個人語」と呼ぶこととする。

うちの部署にも、独特な「個人語」を操る後輩がいる。彼は一応SEなのだが、どーにもこーにもSEとは思えない言語で喋るのだ。例えば、「俺、画面に入れねー」。これを標準的な日本語に訳すると、「私はドメインにログイン出来ません」となる。また、「Excelにつながんないんだけどー」。これは、「このExcelファイルは開くことが出来ません」となる。

コンピュータに疎い方は分からなくてもしょうがないとして、SEで飯を食っている限り、上述のような個人語を仕事中にふつーに使っていると、職場でかなり注目を浴びることになる。仕事中は、やはり「個人語」を使わずに、「日本語」を使うのが無難だろう。

さぼる

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人間は「さぼる」ということをいつから覚えたのだろう。

「さぼる」の語源は、フランス語の「SABOTAGE(サボタージュ) : 怠業」である。純日本語ではないのだ。ということは、フランスからこの言葉が輸入される前までは、日本にはさぼる人なんていなかったのだろうか?

うっそだー。人間は大昔からさぼってたはずだ!(なんで、そんなに強調する。。。)確かに昔の人ほど勤勉ではなくなってるかもしれませんが、現代人も色々大変なのです。社会が複雑化すればするほど、考えなければならない事柄が多くなって、単純に欲望のまま「衣食住」を満たしてればいいってわけにもいかなくなってると思われる。食べたいときに食べる、寝たいときに寝る。そんな自由が許されない現代では、「さぼる」という技術を使って自分の生活のリズムを調整することが必要なんだと思うなー。

松尾の世界

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月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり

松尾芭蕉に対する文学的観点からの論評は、日本文学研究家に任せるとして、この場ではあいかわらず、超個人的見解としての「奥の細道」論を展開してみたい。

「人生とは旅である」という言葉は、今となってはごく一般的な文脈で用いられる常套句である。しかし、世界で始めてこの言葉を発したのは、恐らく松尾さんが始めてだろう(たぶんね)。まぁ、「旅」と言っても色々な種類がある。修学旅行のようなワクワクの旅もあれば、社員旅行のようなダルダルの旅もある。あいのりのようなラブラブな旅もあれば、失恋衝心バスツアーのようなズタズタの旅もある。

松尾さん的には、これら全ての意味を含有した意味での「旅」を人生と位置付けたのだろう。しかし、一般的に普段の生活を「日常」と呼ぶとしたら、旅は「非日常」と位置付けられる。そう考えると、松尾的理論では、この世に生を受けてから、灰になるまでの間、ずーっと「非日常」が続くのだ。

我思ふ。人生ってその大半が「日常」じゃね?というよりむしろ、日常の積み重ねが人生であって、非日常が人生に与える影響は、個人の差こそあれ、そんなに大きくないと思うのだ。

この理論が、かなーり屁理屈であるなんてことは、百も承知なのだが、自分も一生に一回でいいので「俳聖」ならぬ「理屈聖」と呼ばれてみたいと思いながら日々生きている。あんまり名誉な言葉じゃないが、「聖人」と呼ばれるほど、何かを極めるのってええと思うから。(この考え方自体が屁理屈)

片泊まり

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一泊朝食付きという形態の「おとな」の小旅行が流行っているらしい

今月号のおとなのOFFに掲載されていたこの特集記事。パラパラっと目を通しただけだが、この「片泊まり」の宿は、伊豆、箱根、湯河原、有馬といった、比較的都会から程近い場所に位置していることが多いようだ。仕事が終わってから、車で1~2時間で行ける距離であることが、「片泊まり」の宿を形成する最低条件とのこと。

金曜の夜、仕事を早めに終わらせ、宿に急ぐ。温泉でじっくりと体を休め、土曜の朝は早めの朝食を楽しむ。宿での滞在時間はおおよそ12時間くらいだろうけど、忙しい日本の現代人に流行る理由も分かる気がする。

サブカルチャー

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リストカット、ドラッグ、オーバードーズ、電波系・・・。

暗いイメージの言葉を語ればきりがないが、「サブカルチャー」とは一体何者なのか。今一度再考してみることにした。

もちろん「サブカルチャー」という言葉は、暗いイメージだけでなく、明るい側面も持ち合わせている。しかし、一般的な文脈で用いられる「サブカルチャー」という言葉は、若者の楽観的文化、権力と対極にあるもの、といった意味を伴い、必ずしも正道を歩むものではない。まず、言葉そのものに「サブ」という接頭語が付く時点で、表世界に胸を張って存在する文化で無いことは確かである。

自分の周りだけでも、うつ病で引きこもっている友人が何人かいるが、時として彼等のことを「サブカルチャーの申し子」と言わんばかりの口調で否定する人を見かける。世間から外れた弱者だと。特に団塊の世代の方に多く見られるが、ただ単に怠けて堕落した生活を送っている若者と、これら精神的な病に陥っている若者とをごちゃまぜにして、「サブカルチャー」に陶酔しているダメ人間だと理解することで、簡単に片付けている人が多いのではないか。

いつの日か、この「サブカルチャー」という言葉が、時の言葉として忘れ去られたとしても、「サブカルチャーの申し子」として片付けられた人間の心には、一生消えることのない傷が残る。

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