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世の中にはおもしろい迷惑メールが沢山ある。
自分が以前運営していたサイトの管理用メールアドレスの元には、毎日20通以上の迷惑メールが届く。最近は全く使用していないのだが、時々「どんな迷惑メールが届いているのだろう?」とか、「うわさのフィッシング詐欺、俺も引っかかりかけてみたい!」という欲望にかられて、チェックしてみることがある。
英語の勉強をしてたら、教材の中に日本語の語源が話題があったのでご紹介。
カボチャ ← カンプチア ← カンボジア
(ポルトガル人がカンボジアから持ってきたから)
ジャガイモ ← ジャカタライモ ← ジャカルタ
(オランダ人がジャカルタから持ってきたから)
以上、2語。
・・・少なくてすみません。
東北弁の新境地を味わった。
宮城県の県北の友達と会ったときのこと。彼女が突然「あ、あのタコかわいぃー」と言い出した。思いっきり車に乗って道路を走行中である。ここは海ではないことは明らかなのだが、確実に彼女は「タコ」と言った。
どういう意味?と聞くと、彼女の住んでる地方では猫のことを「タコ」と言うらしいのだ。確かにそのとき、道路にはかわいいネコが寝転んでいた。それでは、本物のタコ(蛸)は何んて言うのと聞くと、「タコはダコだぁ」とのこと。つまり、タコはタコではなくダコなのだ。。。
なんてややこしいんだ、東北弁!タコはタコで、ネコはネコでよいではないか!と言いたかったが、彼女にとってタコはダコなのだからしょうがない。郷に入れば郷に従え、だ。後残りわずかな仙台生活では、ネコはタコと呼ぶことにしよう。
日本人は、略語の創作能力に長けている。
今日、街中で「メリクリー!」と電話で言っている若者を、5人も見かけた。一日にこれだけの「メリクリ」を聞くと、自分も「メリクリ」と言わなければいけないような錯覚に陥ってしまう。けど、ちょっとはずかしいので、「メリークリーム」とか言ってみたところ、後輩に「寒いですよ。」と言われた。自分の気持ちに素直に「メリクリ」と言えない性格が仇となったのだ。。。(よくよく考えると、確かに寒い)
話は元に戻るが、日本人の略語の創作能力はすごいと思う。日本には「メリクリ」以外にも沢山の略語がある。年が明けたら「あけおめ、ことよろ」、電話に出たら「もっしー」、朝会ったら「おはー」・・・・。日本には数え切れないほどの略語があるのに、アメリカの略語はほとんど聞いたことがない。思い当たるところでは、「ワシントンDC」のDCくらいである。(略語って言うのか???)
「取りあえずビール」
居酒屋でお客が一番最初に発する言葉の9割が、「取りあえずビール」らしい(注1:筆者の勝手な想像)。新橋の酔っ払いサラリーマンにでもアンケートを取ってみると面白いかもしれない。さんまのカラクリテレビの新企画として取り上げて欲しいものだ。
「取りあえず」というからには、次は違うものを頼むのだろうと思いきや、約6割の人が「生もう一杯」
っておかわりをする(注2:筆者の勝手な想像)。じゃあ、「取りあえず」って言うなよ。最初から生しか飲む気ねーんだろ、って思うが、いざ自分も居酒屋に行くと「取りあえずビール」と言ってしまう。
「取りあえずビール」の派生語として、「ビールの人何人?」というのもある。なぜ一杯目はビールを主軸に物を考えるのだろう。ビール以外の飲み物を頼む人が、異常であると言わんばかりの仕打ちだ。って思うが、自分もいざ居酒屋に行くと「みんな生でいい?」って、半分強制的に生を勝手に頼んでいる。
これって、きっと日本独特の文化だろう。結構これ系の文化って、個人的に大好きである。
去年くらいから、NHKのラジオニュースを聞くのが日課になっている。
っても、本物の「ラジオ」でリアルタイムに聴くのではない。インターネットでRam形式で提供されている英語ニュースを、自分の好きな時間に、好きな回数だけ聴くのだ。これなら、毎日決まった時間にラジオの前で構える必要もなく、パソコンでネットしながら聞き流すことも出来る。
しかし、ラジオのもともとの語源から考えると、このようなインターネットを使った放送形態を「ラジオ」と呼ぶことに対して、少々抵抗がある。radioは、radiotelegraphy(無線電信)から生まれた。ラテン語の大元を辿れば、「車輪」という意味をもつ言葉である。車輪のHUBのように、四方八方に電波を発生させるというところから、「光線」や「放射」といった意味あいももつようになったとのこと。
インターネットで配信されるニュースなどの情報は、あきらかに「コンテンツ」であり、それ自体が受動的な存在である。視聴者がホームページ上の情報に対してリクエストを出すことで、初めてレスポンスが返ってくる。その点ラジオは極めて能動的だ。頼んでもないのに、勝手に電波を使って情報をばら撒いている。
単なる音として比較すると、確かに同じ「情報」である。しかし、その伝達形態を考慮すると、、その情報が持つ本質的な意味が変わってくる。情に報いると書いて情報。とても奥深い言葉だ。
人それぞれ、その人しか使わない言い回しを持っているものだ。
例えば、初対面の人が聞いても理解出来ないような言い回しの口調であっても、長年連れ添った親友や家族であれば、その言葉の意味を理解出来ることがある。ここでは、それを「個人語」と呼ぶこととする。
うちの部署にも、独特な「個人語」を操る後輩がいる。彼は一応SEなのだが、どーにもこーにもSEとは思えない言語で喋るのだ。例えば、「俺、画面に入れねー」。これを標準的な日本語に訳すると、「私はドメインにログイン出来ません」となる。また、「Excelにつながんないんだけどー」。これは、「このExcelファイルは開くことが出来ません」となる。
コンピュータに疎い方は分からなくてもしょうがないとして、SEで飯を食っている限り、上述のような個人語を仕事中にふつーに使っていると、職場でかなり注目を浴びることになる。仕事中は、やはり「個人語」を使わずに、「日本語」を使うのが無難だろう。
人間は「さぼる」ということをいつから覚えたのだろう。
「さぼる」の語源は、フランス語の「SABOTAGE(サボタージュ) : 怠業」である。純日本語ではないのだ。ということは、フランスからこの言葉が輸入される前までは、日本にはさぼる人なんていなかったのだろうか?
うっそだー。人間は大昔からさぼってたはずだ!(なんで、そんなに強調する。。。)確かに昔の人ほど勤勉ではなくなってるかもしれませんが、現代人も色々大変なのです。社会が複雑化すればするほど、考えなければならない事柄が多くなって、単純に欲望のまま「衣食住」を満たしてればいいってわけにもいかなくなってると思われる。食べたいときに食べる、寝たいときに寝る。そんな自由が許されない現代では、「さぼる」という技術を使って自分の生活のリズムを調整することが必要なんだと思うなー。
月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり
松尾芭蕉に対する文学的観点からの論評は、日本文学研究家に任せるとして、この場ではあいかわらず、超個人的見解としての「奥の細道」論を展開してみたい。
「人生とは旅である」という言葉は、今となってはごく一般的な文脈で用いられる常套句である。しかし、世界で始めてこの言葉を発したのは、恐らく松尾さんが始めてだろう(たぶんね)。まぁ、「旅」と言っても色々な種類がある。修学旅行のようなワクワクの旅もあれば、社員旅行のようなダルダルの旅もある。あいのりのようなラブラブな旅もあれば、失恋衝心バスツアーのようなズタズタの旅もある。
松尾さん的には、これら全ての意味を含有した意味での「旅」を人生と位置付けたのだろう。しかし、一般的に普段の生活を「日常」と呼ぶとしたら、旅は「非日常」と位置付けられる。そう考えると、松尾的理論では、この世に生を受けてから、灰になるまでの間、ずーっと「非日常」が続くのだ。
我思ふ。人生ってその大半が「日常」じゃね?というよりむしろ、日常の積み重ねが人生であって、非日常が人生に与える影響は、個人の差こそあれ、そんなに大きくないと思うのだ。
この理論が、かなーり屁理屈であるなんてことは、百も承知なのだが、自分も一生に一回でいいので「俳聖」ならぬ「理屈聖」と呼ばれてみたいと思いながら日々生きている。あんまり名誉な言葉じゃないが、「聖人」と呼ばれるほど、何かを極めるのってええと思うから。(この考え方自体が屁理屈)
一泊朝食付きという形態の「おとな」の小旅行が流行っているらしい
今月号のおとなのOFFに掲載されていたこの特集記事。パラパラっと目を通しただけだが、この「片泊まり」の宿は、伊豆、箱根、湯河原、有馬といった、比較的都会から程近い場所に位置していることが多いようだ。仕事が終わってから、車で1~2時間で行ける距離であることが、「片泊まり」の宿を形成する最低条件とのこと。
金曜の夜、仕事を早めに終わらせ、宿に急ぐ。温泉でじっくりと体を休め、土曜の朝は早めの朝食を楽しむ。宿での滞在時間はおおよそ12時間くらいだろうけど、忙しい日本の現代人に流行る理由も分かる気がする。
